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TWILIGHT MADE …HIDEKI : ウィキペディア日本語版
TWILIGHT MADE …HIDEKI[とわいらいと めいど]

TWILIGHT MADE …HIDEKI』(トワイライト・メイド …ヒデキ)は1985年に発売された西城秀樹のオリジナルアルバムLP)である。
== 内容 ==
この年1月、通算50枚目のシングル『一万光年の愛』の発売を記念して、デビュー以来のシングル50曲をすべて歌唱する日本武道館公演を敢行し、それをライブアルバムに収めた西城秀樹は、これを機にシングル中心の歌謡曲路線から脱してアルバム・アーティスト路線へのアプローチを試みた。そこで白羽の矢が立ったのが、オリジナル・アルバムでは前作にあたる『GENTLE・A MAN/西城秀樹』に一曲提供(「THROUGH THE NIGHT」の作詞・作曲・編曲)した角松敏生であった。当時、角松はブレイクを開始した時期で、杏里の大ヒット・シングル「悲しみがとまらない」などでの音楽プロデューサー業でも評価を得るようになっていた若手注目株〔角松は当時デビュー5年目で24歳。本作発売時の最新作で通算5作目のアルバム『GOLD DIGGER〜with true love〜』(1985年5月21日発売)が自身初のオリコンチャート10位圏内に入り込み、最高位7位を記録。また、本作近辺での他アーティストへのプロデュース業として、中森明菜のアルバム『BITTER AND SWEET』(1985年4月3日発売)や杏里のアルバム『WAVE』(1985年6月21日発売)などへの一部参加がある。〕。デビューから西城と同じレコード会社所属で、同じ担当プロデューサーというのが縁ではあったし、またなによりも「THROUGH THE NIGHT」レコーディング時に西城が角松の音楽性に触れて共感したのが決め手となった〔『オリコン・ウィークリー』1985年5月20日号「音楽こだわり派対談 西城秀樹vs角松敏生」より〕。
アルバム・コンセプトは西城秀樹自身のアイデアで、「クルマの中で黄昏時に掛かっていて、男性が隣(助手席)の彼女に言葉で言わなくても口説いていけるものを」というシチュエーションをプロデュース〔FM東京『ライブ・コンサート』1985年6月29日出演時のインタビューより〕。西城は角松敏生同様に音楽性を買っていた吉田美奈子にも協力を仰ぐ〔吉田は1983年アルファレコードとの契約を完了し、当時はレコード会社とプロダクションに所属しないフリーの立場でのマイペースな活動期であった。本作の翌1986年に絶頂期だった中森明菜のアルバム『不思議』に作詞・作曲で2曲、作詞で1曲提供し、その印税収入で作った自主製作アルバム『BELLS』が後々にまで話題となった。なお、本作近辺での他アーティストへのプロデュース業として、田原俊彦のシングル「銀河の神話」(1985年2月1日発売)の作詞(ちなみに作曲は呉田刈穂こと松任谷由実)、薬師丸ひろ子のアルバム『夢十話』(1985年8月8日発売)で2曲を作詞。〕。かつての山下達郎よろしく〔RVCに所属して制作をしていた1976年から1982年までの山下達郎の作品群は、山下の作編曲と吉田の作詞&コーラスによるコラボレート作品をメインにしていた。ムーン・レコードに移籍した1983年の作品群から山下達郎自身の作詞・作曲・編曲にしたものになっていく。山下が1995年に発表したベスト盤『TREASURES』で自身が書いたライナーノーツによれば、ムーン・レコード以前は多分にプロデューサー的な発想で、ムーン・レコードに在籍してからはシンガーソングライター的アプローチで自身の作品を制作している旨を記している。〕、洗練されたファンクソウル・テイストの角松の作・編曲とそこに載る吉田の甘くともせつなく、それでいてシニカルな作詞で10曲中4曲を作り(角松と吉田のコラボレーションはこれが初となるが、角松はアマチュア時代から吉田を敬愛していたため、渡りに船でこれを引き受けた)、それを核にして旧知の芳野藤丸岡本朗、そして女優から作曲家に転身したMAYUMIこと堀川まゆみの作曲家陣を配した。
路線を変えたかった西城はそれまでのパブリック・イメージを覆すため、アルバムのアートワークにおいて“西城秀樹”というパーソナリティーを出来るだけ隠し、ジャケットには初めて自身の写真を載せず、しかも似顔絵でもない印象派的なイラストで匿名性をおびたものを採用した。さらにジャケット正面に載せるアーティスト・ネームは“HIDEKI”とだけ記した(ただし、帯にはもちろん“西城秀樹”と記されていた)。それでも、パーソナリティーが反映されるシングルをもとにした音楽活動は引き続き行われていて、このアルバムの発売前々月の5月に通算51枚目となる「ミスティー・ブルー」を発売。しかし、その曲は本作には収録されず、シングル曲未収録で発売。その発売時の声明で、「アルバム・アーティスト路線の手法に則り、これからはアルバムからシングル・カットしていきたい」と言及していたとおり、発売から翌々月の同年9月にアルバムから「BEAT STREET」をシングルカットすることになったが、シングル・エディションに曲が編集されたとはいえ、既発表曲をシングルにすることは、これもまた西城にとって初めての試みだった。
結局、本作はヒットするには至らなかったが、西城はこの路線をしばらく続ける。次のオリジナル・アルバム『FROM TOKYO』(1986年6月5日発売)では角松は離れたものの、吉田の作詞・作曲で8曲中3曲を、MAYUMIによる作曲を2曲起用するなど連鎖させている〔吉田はこれら二枚のアルバム以外でも、この間の通算53枚目のシングルで、バリー・マニロウとのデュエットが話題を呼んだ「腕の中へ - In Search of Love -」(1985年11月21日発売)ならびに同シングルのカップリング曲「愛の翼 - It's All Behind Us Now -」の日本語詞で起用されている。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「TWILIGHT MADE …HIDEKI」の詳細全文を読む



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